1945年8月6日、午前8時15分。
人間の造った光が多くの市民を劫火に焼いた。
その光は遠方から見るだけなら、とても綺麗な光だったという。
しかしその中では、内臓から肉体からありとあらゆる血肉を蒸発させた人々の魂が霧散し、灼熱と爆風に五体をバラバラに引き千切られた黒こげの人々が宙を舞い、衝撃に破壊された街が、家が、学校が、役場が、橋が、粉微塵に粉砕され、物凄い数の夢と希望が、家族が、愛し合う者たちが、儚く消滅させられた。
僕が子供の頃、既にその『事実』は、勉強で『知る事件』であった。すなわち『知識』として教わったわけだ。
『原爆』
『水爆』
『核爆弾』
『ヒロシマ』
『ナガサキ』
『放射能』
『被爆』
『ぴか』
『ケロイド』
『死の灰』
『トルーマン』
『爆心地』
『リトル・ボーイ』
『エノラ・ゲイ』
『摂氏6000万度』
『きのこ雲』
『テニアン島』
『B-29』
『・・・』
しかし現代において、果たしてそれだけでいいのか。
明日、午前8時15分。
何かしても、何もしなくても、この時間は過ぎていく。
何を想い、何を考えるか、それは人それぞれ。
僕は、本来今日までに用意しなければならなかったものに対して、改めて挑戦を開始しようと思う。
来年の、明日のこの時間までに用意すべきものに対して。
それが僕の挑戦のひとつだ。
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