11月27日(火)朝
出勤の車内で横浜に住む兄からメール受信。
父の様子がおかしいらしい。ボケがあり、歩きもおぼつかないとの事。介護保険の手続きをしたいが木曜あたりに休めるかと。
実家は横須賀と横浜の市境の金沢区。兄は港北区。独り暮らしの父のそんな様子を、兄はどうやって知ったのか……そもそも誰からの情報なのかが解らない。が、とにかく事態からして仕事を休まざるを得ない事だけは理解。
同日夜
仕事を終え、今週いっぱいで職場を離れるカイワレさんのために、仲間と一緒にデパートで贈り物のハンカチを選んでいた時、兄から電話。
木曜の休みは取ったと伝えると、意外な言葉が。「今救急車から電話入って親父倒れたって」。
どうやら家の近くのコンビニで買い物中に転んだとの事。顔を怪我して頭も打っているそう。
どうすべきか聞くと「とりあえずオレ行って来るから」と。
どうしようもない。今は兄に任せるしかない。新宿から横須賀なんか行くのは簡単だが、この時間からでは帰りが難しくなる。様子が解らないと動きようがない。
同日深夜
兄から電話。
頭の中に内出血による脳の圧迫が見られるとの事。今回の動きの鈍りやボケの症状の原因もこれではないかと医師の意見。状況を見て即時か、間を開けても数日の間には手術となる模様。
とりあえず明日は仕事。明後日の木曜に来てくれと。
11月28日(水)
兄からメール。
「木曜の朝、8:30に手術決定。それまでに病院に来てくれ」との事。
介護保険の話なんかはもう先延ばしである。まずは手術だ。
11月29日(木)朝
病院に着くと父のベッドは既にカラ。看護士さんは「もう手術室入っちゃってますんで、ここでお待ち下さい」と。
しばらくすると別の看護士さんが「ここでは何ですのでアチラの休憩室でお待ち下さい」と。
移動して待っていると別の看護士さんが「家族用待合室がありますのでそちらへ」と。
家族用の部屋で待っていると別の看護士さんが「お荷物、お部屋の方にありましたよね。万が一という事もありますので、お部屋でお待ちになりますか」と。たらいまわしの状況を今は書いていて腹が立つけれど、その時はそれどころじゃない。あぁそうですね、と言われるがままだ。
小一時間ほどで帰ってきた父は麻酔のせいで意識がハッキリしない。それでも動く。無意識に点滴の針を抜こうとするので、手首から先はペットボトル状のカバーが覆っていて、指先が使えなくされている。頭に開けた小さな穴からチューブが長く出ていて、その先の透明パックに血が微量ずつ抜け出ていく仕組み。ところが無意識の父はそんな事もお構いなしに動いてしまう。そこで拘束具でベッドに完全固定。可哀想だけど、今はそうしないといけない。これが抜けたらまた手術して入れないといけないし、そんな事を繰り返していたら感染症の可能性がどんどこ増える。老体にそれは更に過酷な事になる。気の毒でも今は縛り付けるしかない。
兄と二人。近くに居てもしてやれる事がない。母が生きていたら……気丈な母なら、看護士よりも率先して父を押さえ付けていただろう。それに引き換え、息子二人は非力だ。元気だった父の、今は弱って小さくなって横になっている姿を、細くなった腕を、手術のために刈られた頭とそこから出ている真っ赤なチューブを見て、どうしていいか解らず、オロオロするばかりだ。
僕は20才で家を出て兵庫県に住んだ。当時付き合っていた彼女と結婚したい一心で、稼ぎを求めて営業職に就いたのだが、入社と同時に地方転勤となったのだ。
独りで地方転勤。父は多くを語らなかったし、賛成とも反対とも言わなかった。しかし、年に一度、戻った僕に必ず言う一言があった。
「飯、食ってるか」「ちゃんと食べてるか」
この言葉が口をついて出る背景は重い。
父は秋田生まれで、確か六人兄弟の長男だったはず。戦争が終わって間もない秋田の実家では、兄弟といえども食べ物は取り合いだったそうだ。そういう中、長男だった父はほとほと苦労を背負ったそうで、横浜に出てきてからは電機技師の仕事に就いた。その頃、見合いで母と知り合い、結婚して兄を生んだ直後に電気事故で全身火傷。それでも奇跡的に一命を取り留めて部分的に火傷跡を残して社会復帰。そして僕が生まれるが、兄の左腕が病気で動かなくなる。子供たちのいじめを恐れた両親は兄を私立の小学校へ。当然生活は困窮。母は内職やパートに勤しんだ……
その母を、長年連れ添った母を去年亡くした……
12月2日(日・今日)昼過ぎ
見舞いに行ってきた。昨日行った兄からのメールでは、意識も戻って会話もできる、大丈夫、とあった。とはいえ、実際に見てみないと安心はできない。
見舞い時間開始と同時に到着。
父は……寝ていた。起こしていいものかどうか悩んだが、声をかけてみた。
目が開いた。こちらを見る。意識はある。しっかりある……とは言えない。すこし朦朧としてる。眠っていたんだから仕方がないか。二言三言会話してみる。ちゃんと会話になる。今週末には退院できるはずだから頑張ろうと励ます。父は泣いていた。父の気持ちは充分過ぎるほどよく解っている。僕らに心配をかけた事で泣いている。でもそれは違う……と、いつも僕は思う。どうして親父が泣く必要がある?僕らを生んでくれた父と母。二人がいてくれなかったら、僕らは今を生きていないのだ。
そんな事を考えていた時、隣の患者さんの見舞いの家族がやってきた。二組の息子夫婦に、三人の孫、そして患者さんの奥さん……
そして一番奥のベッドの患者さんにも見舞いの家族が……奥さんと嫁さんと、孫か。
ふと父を見たらまた眠っていた。会話もせいぜい三分かそこらだ。でも寝てしまったものをまた起こすのも忍びない。帰る事にした。
ドアを出て振り返る。父は眠っている。両隣のベッドの見舞いは華やかだ。それに比べて父のベッドの寂しいこと……
僕は親不孝者だ。雷に打たれた様にそう感じた。母は亡くしたとしても、嫁さんは居たっておかしくなかった。結婚生活を続けていたら孫もいただろう。そんな楽しみや安心を、両親に与えてやれなかった僕は、正真正銘の親不孝者だ。
今の状態で感染症もなければ、一週間で退院できると聞いている。一安心ではある。あとは一人暮らしをどう解消するかだ。僕が同居するとしても、昼間は仕事でいなくなる。問題はまだ山積みだ。なんとかしなければ。
今日、目が覚めた時の父の言葉はこうだった。
「飯、食ってるか」
頼むから元気になってくれ!!
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